ゆとり競争

うちの子の学校はそんなことないけども、最近の小学校で『徒競走』が変、だそうで、事前にタイム計って同じ位の速さの子を集めてグループにしてみたり、順位の旗が無かったり、酷いのになるとゴール前で一旦止まってお手手繋いでゴール!!だとよ。ひでぇもんだね。平等の拡大解釈目白押しだ。

「事前にタイム計ってって・・・一番遅いグループでゲッポな子は救いようがないじゃないか」とか「順位が明確じゃなきゃ負けたら次がんばる気力が無くなる」とか、「みんなで一緒にゴールじゃ足の速い子にとっては逆差別だろう」とかいう素朴で牧歌的な『反発』で済ませてよいのかな。もっと怖い事だと思うのだけれど。

近代国家への移行期唱えられたのは「結果の平等」ではなくて「機会の平等」だ。
徒競走で言えば、同じスタートラインに立ち、同じ「合図」でスタートし同じ距離走る事が平等という事だ。

そして、この徒競走の結果、たとえ順位が劣ったとしても、キリスト教的立場にある人の場合は「神の前で人間(但し信者に限る)は人格としてすべからく平等」であるから、徒競走でゲッポになったからって人間として劣っているわけではけして無いと考える。それを信じている(あたりまえだ信者だもの)からこそ思う存分力を発揮して戦えるわけだし。

つまり、結果まで平等にしてしまおう、という考えは、世界中探しても非常に珍しく、「日本独自の教え」なのである。それが最近出てきた。

いわば新興哲学だ。そうした新興の哲学を義務教育たる小学校で刷り込まれている。どういう結果を産むかも分からずにだ。

誰かが提唱し、多くの批判を浴びた後成熟した哲学として『結果の平等こそ真の平等』という理論が確立したのなら、<その実践としての国家体制を作り上げる為義務教育に盛り込む>のは別に悪い事とは思いません。私は嫌だけど。

しかし、今 これを行っているのは現場の判断なわけだろう。どうなっているのだ?本当にいいのかこれで。