歯痒い。

 アナウンサーが自殺をし、それを批判した某タレントのある方がネットユーザ(死語)の批判の的となってブログが炎上しているらしいです。

「自殺は愚か者の選択」

 そう言い切ってしまえるほど俺も若くない。
 若い頃はそう思っていた。
「死ぬ気がなればなんでもできるだろう」ってねぇ。

 でも本当にそうだろうか。

 本当に死ぬ気で出来ることってなんだろう。なにができるのだろう。出来るんだったら死を選ぶ事はなかったんではないのか。死ぬ気でやれば出来ることって何ですかねぇ。教えて欲しい。

 そんな風に思うようになったのはかつて身内が自殺をしたという経験があったからです。それで初めて真剣に考えるようになった、それだけのことだ。

 子供ができると否応でもなく親のありがたみがわかりますよね。それと同列に言ってはいけないのかもしれないけど、身内に自殺者がいるといないとでは、やはり捉え方は違ってしまうんではないだろうか。これはしかたがない。

 少なくとも「人を殺せば死刑になれると思ってやった」といった類の事件があるこの世の中で、「死ぬ気がなればなんでも出来る」なんてあまし簡単には言ってはいけない。何でも出来るのは「死ぬ気」ではなく、やはり「元気」だと思うよ。猪木は偉大だ。

 自殺者は地獄に行くという教えはキリスト教にはあるそうだけど、仏教徒のヒエラルキーで最高位にある坊さんとかがよく即身仏になった歴史を持つ日本人の末裔が我等だということ、やはり忘れてはいけないような気がする。

「死にたい」と思ったことが一度も無い人間て、そう居ないと思うんですよ。
 で結局死なずに生きている人が多数なわけです。
 その「違い」はなんなんでしょうか。
 別に俺は死ぬ気でやらなくてはいけないような事しているわけでは無いですね。いままでそんな経験は、無かった、といえます。

 もし目の前に「死ぬ気でやれ!」というものがあったとしたら、俺はまずそこから「とりあえず逃げる手段」を考える事でしょう。恥ずかしい事ですが多分俺は、正直そうするでしょう。そして、「どうにかこうにか、『なぁなぁ』で済む手段を『一生懸命生き生きとして』探す」でしょう。これまでもそうしてきた気がします。

 幸い、「なぁなぁ」で済まなくなった事態に直面することなくこの年までやってこれた、それだけのことかもしれません。これを自分では「世渡り上手」なんだ、と自慰していただけかもしれない。それを恥ずかしい事ともし俺が思ってしまっていたら、選択肢として自殺というものが出てきたのかもしれない。実際死にたいという気持ちが「ちら」っとてくることが無かったかといえばそんなこたぁ無い。でも「ちら」で済んでいるし、多分ここまで恥ずかしい人生を歩んでしまうと、今後もおそらく「ちら」で終わってしまうと思う。

 よくわからないけど、人生とか生きるというのは要するに「恥ずかしい事」だと思う。恥ずかしい事が正しいとか間違っているとかはさておいて、ともかく、生きるというんはどうしようもなく恥ずかしいことを繰り返す事でしか無いような気がする。そして多くの自殺や自殺を呼び込むことの原因は「恥ずかしさ」に起因するような、そんな気がするのです。いかんな。もうちょっとかっこいいい言い方があるようで無い。非常に歯痒い。

 ちなみに俺は恥ずかしさに麻痺してしまった。だから本当は「なぁなぁでは済まされていないよ!おい!」という事態に陥っているにも関わらず、全く自覚しいていない可能性もある。いや、本当は気付いている。気付いていないフリが旨いだけだ。本当に恥ずかしい。あぁ恥ずかしい。

 酔っ払って書いた。醒めてから読むときっと恥ずかしくて反省すると思う。