新潟昭和50年代

今朝久しぶりに新潟の夢を見たので少しおセンチになっている(笑)どんな夢だったのか、それ自体は例のごとくよく覚えていないんだが、とりあえずダイエー(もうない)の地下で焼きそばを食った(という夢)。

あのピーコック(だっけ?)の焼きそばは非常に美味かった。いや、なんてこたぁない焼きそばなんだけどな。横にアイスを売っている店が並んでいたな。カップで掬ってコーンの上に2段3段に重ねるあれ。

地上に上がるエスカレータの横に、今はあまり見かけない透明な箱に下からジュースが噴き出しているやつ、正式にはなんて言うんだろうかあれ。オレンジジュースがピューピュー吹き出してるがん。あれとソフトクリームを売る店があったような気がする。

当時、万代シティにマクドナルドが進出してきた頃であったが、マックは「高級品」で子供が一人で食いに行くような所ではなかった気がする。親父が給料日とかにおみやで買ってくるようなもんだった。ファーストフードと言えばミカヅキのイタリアンが関の山。ガキは寺社で売ってる「きんつば」やら「ポッポ焼き」とか、”なんか屋(駄菓子屋)”の怪しい菓子で腹を満たすが定石な昭和52年(1977)頃の話。

あの当時(小6~中2くらいまで)、部活の無い日はやたらと万代シティをうろついていた気がする。バスセンタービルの3階(になるのかな)に本屋があった。ガタケットショップになってるあたりだか。その本屋でひとしきり立ち読みをする。「テラへ」とか「アタゴオル物語」とかが連載中だった朝日ソノラマの雑誌をよく立ち読みした。そしてその並びにカメラ屋があって、そこにある中古カメラを眺める。ちっとも入れ替わらない中古カメラ(笑)の中に、キャノンFTbのブラックがあって、それが欲しくてね。いつもあるからなんか永遠に売っているような気がしてたんだが、カメラ屋自体が無くなってしまった。ほんで、ダイエーに渡って、5-6階だったかの電子部品屋を眺めてあの匂いを胸いっぱいに吸い込んでからレコード屋に行き、買うつもりもない(てか買えない)YMOとクラフトワークのLPを眺め、地下に行って、焼きそばを食う、と。なんつーかあまり面白みのない少年時代な。

私は東京から新潟に引っ越したので、よく「東京モン」だの「かっこつけている」と言われたけど、東京と言っても、府中市だ。府中は今となってはやたらシャレオツな街になってはいるけど、昭和50年代の府中なんてもうただの「ど田舎」だ。京王線は地べたを走っていたし、府中駅周辺で一番の店は西友とか忠実屋の類のスーパーだけ。映画館はエロもの館しか無かったから新宿まで出る必要があった。

しかも私は四谷というさらに僻地に住んでいたから、店は駄菓子屋と酒屋くらいしか近所に無く、多摩川の河川敷で凧揚げしたり、焼き芋焼いて火事になりかけたり、神社の賽銭盗んで神社のブランコ乗ったら落ちて大怪我して「賽銭ドロのバチが当たったんだ」と周りから責められて返しに行った、ってくらい昭和な土地だ。学校へは森や畑の中を通って行き、近くのコンクリ採石場では毎年子供が死んでたりした。学校の裏庭にはマムシがよく出て、NECの社員が噛まれたって校長が青い顔して朝礼で言ってたな。なんでNECの社員が小学校の裏庭歩いてんだ?と今思えば妙な話だけども(学校のすぐ近くにNECがあった)

そんな府中から新潟市に行ったわけだから、私にとって新潟は結構な都会だったわけね。テレビはやたらチャンネルが少なくてびっくりしたけど、府中にダイエーすら無かったのに新潟にはデパートあるし。変な名前のデパートだったけど(小林とか)デパートはデパートだ。すげぇと思った。第一ホテルだったかの前で興業に来ていた上田馬之助のナマで見た時は興奮したもんだ。なんせ有名人見たの初めてだったから。初めて見た有名人が上田馬之助ってのも色々と感慨深い。

先日上田馬之助さんが亡くなられたそうですね。ご冥福をお祈り致します。