沼垂慕情
沼垂慕情(2001コンテンツ)
広い意味で沼垂というと、だいたい信濃川の南側の河口付近を中心とした大仰に言えば沼垂は、信濃川東~南岸の港町です。(江戸期、信濃川及び古信濃川の下流に向かって右側の旧新発田藩領の蒲原※村の港町で、信濃川北岸が長岡藩の新潟町、信濃川と信濃川の中州の南を流れる古信濃川に挟まれた流作場((万代-現新潟駅一帯)は長岡藩に帰属)こちらやこちらが詳しいのでご参考に。
(※ちなみに蒲原というのは信濃川下流域全般に広がる地域を指し、様々な藩がそれぞれ分割統治していました。蒲原郡の南の方は会津藩領だったため、廃藩置県の際一時は若松県(福島県)に所属したこともある)
新潟(新潟島)300年の歴史に対して、沼垂は1400年余りといわれてます。日本書紀孝徳天皇記大化3年に 「越(こし)に 渟足柵(ぬたりのき)を造り、柵戸(きのへ)を置く」 との記述が「に見られます。柵戸とは屯田兵の事。柵とは木戸のようなもので、そういえば木戸という地名が残っています。その後、「岩船柵(荒川の北)」 「都岐沙羅柵(山形との県境)」っと、大和朝廷の精力が東北に伸びて行きます。かつて、信濃川と阿賀野側は沼垂で合流して日本海にそそいでいました。写真は焼島潟(通船川)ですが、これはかつての阿賀野川のなれのはて。
中世、沼垂の湊は「蒲原津」と呼ばれ 越國の要所でした。沼垂は信濃川、阿賀野川の流れにまかせて転々とし(どこをどう転々としたかは詳しくは解りません) 現在の地に落ちついたのは江戸時代初期とのこと。阿賀野川は享保年間に松ヶ崎分水(現在の河口)で海に流れる様になりました。
江戸期の沼垂は 旧新発田藩領です。
古信濃川の北側は長岡藩(のちに幕府直轄領となる)で別の国でした。
新潟島側に、海沿いから寺町~歓楽街~市場~商店街を経て白山神社という流れがあるように、 沼垂にも全く同様、港~寺町~歓楽街市場~商店街~沼垂白山まで小規模ながら そっくりな流れで街が作られていて、鏡に映った光と影、ハレとケが好対象となってます。
紫竹山インターより国道7,8,49混合線となっていて県道464を経て北上、信濃川にぶち当たる道路。もともとはここには(旧)栗の木川が流れてました。
沼垂の街の中心はこの栗の木川の東西両岸に広がっており、この市街地の南端に 沼垂白山神社と 蒲原神社 が川を挟んで対となって鎮座してました。
その蒲原神社が、蒲原平野の米の豊凶を占い、ご神託をする(らしい)のが蒲原まつりです。がそれより、テキヤさんのエキスポ(?)として、の姿の方が有名です。テキヤの出店の数は日本で一~二を競うのではないか といわれています。でもなんで??
今年の豊凶は?
(境内にて)
・・・六分七分の作難なし と
どう解釈すべきなんだろうか・・
良い様に解釈すれば良いんでしょうな、こういうものは。
新潟に始めて鉄道が走ったのは1897年の事、一の木(東三条)~沼垂間でした。当初ここが新潟の玄関だったわけです。本来なら新潟の中心地(現新潟島内)に駅を作るのが筋なんでしょうが、1キロ近い川幅があった信濃川に鉄道用の橋をかけることは資金面などで論外、やむを得ず万代橋南詰めの近く「流作場」に新潟駅を作る予定でした。
流作場は江戸期 北は信濃川本流、南は古信濃川に挟まれた「島」で、新潟側(長岡藩側)が新田開発をした長岡藩の土地(やがて幕府直轄領)という歴史があります。
ところが土地の買収資金不足で流作場駅を断念、沼垂町の街中に駅を作る方針へと変更されることになります。
沼垂駅建設計画当初より、沼垂推進派は新潟推進派側から、「こっちに伸ばせ」とテロまがいの攻撃をされる事となりました。それでも沼垂を終着駅として建設が進みます。新潟側はどーにもこーにも収まりがつかず、ついに開業直前には爆破事件まで起こしてしまった(おいおい・・・なにもそこまで・・)ま、被害は大した事無く、暫く沼垂が終着駅としてつかの間の繁栄を見ます。6年後、新潟側の過激な鉄道誘致運動が実り、路線は沼垂駅先で左へ大きくUターン。信濃川に沿う形で南下し、流作場に旧新潟駅が完成、沼垂は途中駅となりました。
図は昭和28年頃の一番路線が込み合っていた時代の地図。
1958年、手狭となった旧新潟駅にかわり、「ばんだい」に向かう路線上の現在の場所に「新」新潟駅ができました。それに伴い、大きく遠回りをしていた沼垂経由の路線を本馬越の分岐でショートカット(-_-;)。旧線は沼垂駅までの貨物専用線となって、今に至っています。
※撮影地はこの撮影後、一部万代高校の敷地となっています。